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​「ひたすらに、ゆるむことなく、休むことなく」

​岸田 親憲

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​ひたすらに、休むことなく、ゆるむことなく

岸田 親憲

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​慢心

 信仰上で又幸せになろうとする上で一番大切な心掛けでありますところの「慢心」と言うことについてお話をさせて頂きます。教祖さまが常におっしゃいました。それは「金持ちと学者はお蔭げ後廻し」と言うことであります。私たちが日々信仰をしておりますその中で何が一番六ケしいかと言いますと、学問をおさめた人、或るいは財力のある人いわゆるお金持ちでありその人たちは一番お導きがしにくいと云うこと、教祖さまがおっしゃる様に幸せやお蔭げが頂けにくいと云うことであります。学問をした人はこの世の中が学問の理屈で成り立っている様に思い、又往々にして財力のあるお金持ちはこの世がお金、金銭で成り立っている様に思い込んでしまい、この世の根本を知ろうとなさらないことであります。なまじつかな学問があるだけに自分は何でも識っていると云う自負心がありそれが邪魔をして人の言うことを素直に聞くことが出来ません。自分にはお金が充分にあるからお金を出せば何でも出来ると思い込み又そのお金の減ることをおそれ人の言うことが信じれなくなるのであります。確かにこの世の中、学問は必要であり何も識らないと云うことより多く識っていると云うことは日暮らしの中で生活そのものが識っているだけ明るくなり安心が出来ます。ある意味で「無知」と云うことは悲しむべきであり淋しいことであります。ここで私が「無知」だと云うのはいくら多くの知識を学び知っていても、人生についてこの宇宙についての眞理を知らないと云うことであります。ましてや今日程文明の進んだ社会ではいろいろな知識は必要であります。しかしその進んだ知識ではこの世の眞理は判らないのであります。本当に理解し会得し幸せに暮らすことは不可能であります。又今日の社会は自由経済の世の中でありお金なくしては一日も生活が出来ません。しかし、お金ですべてを買うことは不可能であります。

 一方信仰をさせて頂くと云うことは人生の底の底から解明しこの世のしくみを会得させて頂き神さまと共に明るく活き活きと暮らさせて頂くことでありました。ところが「なまじつか」な知識や財力があるとそれにはまり込み溺れてしまって「自惚れ、ウノボレ」が強くなります。判っていると云うウノボレ、持っていると云うウノボレが顔を出して素直になることが出来ません。このウノボレを取り除くのに大変苦労をされます。謙虚に身を持つことが出来んのであります。

 そんなこと知っておるワイと云う気持ち、ところが本当に知ると云うことは知識として頭にあると云うことではなく、何時も云います様に体から判っていることであり、その判っていることを何時でも自由に出して使えると云うことなのであります。識っているだけなら本当に判っているとは言えません。この慢心これがおそろしいのであります。人間は一つの事柄、判ったと思った時から進歩は望めません。そこで止まってしまいそこでおしまいです。お金を沢山持っているとお金でこの世を自由に自分の好きな様にしょうとし他人を思いのままに動かそうとします。そして今度はそのお金のなくなることを恐れて心が裸になることが出来ません。

 又これらのことと同様に実際の信仰面でも自分は教えを多く聞いているとか、お詣りを盛んにしているとか習慣的な慢心になりやすいことであり、夫々がこんなつまらないことにはまり込まない様に気をつけて頂きたい。

 これは神さまの方からいたしますと、お前へは幸せになりたいと云うが、それよりも先きに回数多く詣っていると云うことが目的になってしまっているではないか、お詣りの覚の意味から外れているではないかと云うことになります。お金にしても多く寄付をし多くお供えをしているからと云うことが自慢になってしまってお供えしておればそれでいいと云うことになり神さまのお働きは無くなるのであります。この「慢心」には以上の様なうのぼれ平たく言うと他人が皆馬鹿に見えたり思えたりしてしまい、果ては神さまでも倍じられなくなり「信ずる」と云う人間が「幸せになっていこう」とする時の最も大切な素直さがそれによって消えてしまうのであります。

 この慢心と云うことは私たち信仰するものにとって一番注意をしなくてはならない心掛けであります。神さまに対して、その教えに対して、その教えを説く(解く)者は特に身を引きしめて自分が常に実践をし手本となり見本を示すことの出来る人でなくてはなりません。

 いろいろと申しましたが、自分が逆境のドン底に落ち込んだ時果たして「慢心」やウノボレが持てるでしょうか。決してそんな気持ちにはなれません。それは自分がどんなことをしてもそこから伸びようとして必死に素直になっているからであります。仰者の最大の敵はこの慢心ウノボレであります。従って、きつく自分の心をいましめてその慢心と云うものを起こさない様に考えて頂くと云うことが一番大切だと思います。

 この我々の生活と云うものは言はば自然の中にあるのであり自然をはなれてその現実をはなれて生活はないのである。眼の前の足下の「場」こそすべてであるのです。ですから自然の動き「場」の動きそのままにその示すところの意味を読みとり我々が動くと云うことが幸せの一番近道であり、それが一番確実なものであると云うことを知らなかったらいけない。それがややもするとその自然の動きからはなれてしまって学問をしているからとか、又お金があるからとか、人よりも多くお詣りしているからとか、人よりも教えを沢山聞いているからとか慢心の結果が取り返えしの出来ない様な不幸せを自分で持って行くと云う様になりやすいのであります。

 自然と云うことを云いましたが、この自然と云うことは云い換えて見ますと「秩序」と云うことであります。自然の動きにそわないと云うことはすなわち秩序と云うものをこわすことであります。秩序と云うことは現実の中では順序と云うことであります。この世のしぐみであります。

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