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​「ひたすらに、ゆるむことなく、休むことなく」

​岸田 親憲

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​ひたすらに、休むことなく、ゆるむことなく

岸田 親憲

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​神さまを肌で感じて

 皆さんは神さまと云うお方をどのように理解し受けとめさせて頂いておられるのでしょうか。私はこんな風に受け止め私の肌で感じさせて頂いております。

 神さまはお姿のないお方である丈けに一般社会では神さまはその存在を証明することも否定することも出来ない私たち人間の良心の要請としてあると云う様に全く観念の世界の中で神さまと云うお方を受け止めているのがほとんどではないかと考えます。私は神さまはそんな観念的な存在ではなくして、特に親導教では人格神として存在しておられるのだと確信いたしております。

 何時もお話いたしております様に、この世はすべてのものごとを「幸せにしてやろう」と云う大きな神さまのご意志によって摂理されておりすべてのものごとがこの神さまの摂理の中で動いております。それは物ごとの動きそのものだと云っても決して差し仕えありません。日々神さまがお考えになっていることが我々の上にハッキリと現れている。そのまま出て来ていると云うことであります。例えば、私たちが悔い改めていけば悔い改めたと云う時点のそのままが、云い換えてその幸せが再現して来ます。考え違いをすればそこにクモリの世界が出て来る。

 私が神さまを一つの人格神として受けとめていると云うのは、かつて神が色々な事柄に遭遇して自己を磨いて練りに練ってその結果として一点の非の打ちどころのない明るい一つの心をきずき上げられたと云う魂そのものが大神さまとしてこの世に存在しておられると受け止めさして頂いております。でありますから、私がその神さまと全く同じになれないとしてもせめてその神さまに近づかして頂きたいと云うせつない願いを強く持たせて頂くことが、どうかお陰げを下さいと云う一つの思い、すなわち幸せになりたい云う一つの思いになって出て来ているのであります。

 そこで神さまがこの者を如何にして修養させてやろうか、この段階より練り上げてゆけばこの段階にまで練り上がっていくと思召されるから我々はその行をさせて頂くのであり、お蔭げとその行の意味もそこにあるのであります。

 しかし、その行をさせてもらっていても行けども行けども山の中で出口が見えて来ない場合、人間は信仰はいい加減なものだと思い勝ちであり一度そんな思いをしてしまうと自分は奈落の底に落ちてしまうものであります。そんな人になったらつまらない。いかなる事態に遭遇しても堪えてその場をけ破って一つの幕をし上げる人間にならないといけないと思います。その人間が本当の幸せを感じて生き感じる丈けではなく現実的に幸せになり他人をも巻き込んで幸せにしていく人だと思うのであります。だから、神さまも人間もこの段階で全く一緒であり同質であると考えます。神さまのみ心そのものが自分を通して表に出ている。これが具体的な神人合一であり、その人の行動は立派なものであると考えます。己れが口にすれば必ず口にすることによって自己反省をさせて貰うのであり、すべて言葉は自分の損得を大きく超えて自分自身にいましめとして申し付けながら他の人にも神の言葉として使われているのであります。だから、それは単なる言葉としてではなく、同時に自己反省であり同時に神の声であり又同時にまわりの人々の幸せの種でもあるのです。更にはその言葉は自分自身のなすべき行いであり、実践をするからそのものは身に付き自分のものとなるのであります。自分のものとなるから自由自在にそのものを使うことが出来るのであります。即ち、幸せそのものであります。

 それをそのままに話しその人がそのままに行えばお蔭げをもらってしまう。これは「ことだま」の働らきである。だから話は大事である。ウソをつけばそのウソをついたと云う一つの事柄が起きてくるし現れて来る。ウソをつかない人はいいにおいの花が咲く。人が見向きもしない様なつまらない花を咲かせその上に実をつけることは眞理ではない。そんな中味と違う反面を出し自己表現をするからそれにふさわしい結果が出て来るしウソだと云うことが判って来る。

 言葉のままに自分が反省をし、他人さまもそうなる様に自分も一層そんな行いが出せる人間にするためには、どうしても自分の行いに出したことは常に自分の口から出し耳に入れて実践することに努力することである。その行いを自分のものとすることである。

 自他一如とはこのことであり自分を修めることが即同時に他人のためになっていることでありこの様にならなくてはならない。

 自己の在り方によって他人はついて来るものである。人を引っ張ろうとしてはいけないことである。人には人の自由がある。ここまで来ると自分の考えたままに進むが良い。姿を見てはいけない。勘定してはいけない。この最も具体的な現実のド真ん中で神さまをにぎっていただぎたい。

 この様に現実の世界、云い換えて眼の前の人やものの動きをじっくりととらまえてみるとその動きの中にはどんな小さな動きの中にも宇宙の意志があり神さまのご意志が秘められており我々

人間が日常生活で最も大切にしている自分と他人の区別がなく一つの摂理によって万物が美しく動き動かされているのであります。

 この世の眞理と云うものはおそらく今の現世だけだと考えている。だからあの世が判らない。いわゆる眼に見える世界、眼に見えない世界と云う言葉を使うと、人は皆この眼に見えた世界だけが現実の世界であると思っているがそうではなくて、眼に見えない世界の上に眼に見える世界がありあの世の中にこの世がある訳けである。己れと云うこの精神、私と云う心の住んでいる世界にこの現実がある。肉体と云う現実がある。その現実の肉体が消滅すれば残るのは魂のみである。

 日本書紀、古事記の中にくくもりて一つのものなれり、その中に神ありきと書かれてある。山に入れば山の気に打たれる。何がそう云う気持ちにしたか判らないが気と云うものが残っている。一つのものが成った。その中に神がおられた。その気そのものが神であると考えればよろしいのである。心の世界、このものの凝り方によって一つの物質が出来た。その物質の中に神さまがおられ采配されている。一つの気の動きによって現実のものが変わって行くと云うことであります。

 そうすると別の世界あるのではない。一つなのだ。その中におるからその中のものは自由につかうことができる。その中から離れて外に出てしまったら使えない。何事も自分のものにすると自由に使うことが出来る。持ってしまうと現実の世界で持つまでがあの世である。つまりものの動きが時間の上で確認することによって知ることが出来る。私は今のこの時点で間違っていないと考える。そう云う社会に住んでいるだけにあの世とこの世のとらまえ方を間違えない様にしなければならない。

 これをガッチリ握り悟ると恐れ多いが大神さまの肌が感じとれる。そこまで進ませてもらいたい考えている。そう云う立派なものが出来るとわんさわんさと人が押しかけて来るかと云うとそう云うものではない。俗にそんな結構なものだと皆なが寄って来ないかと云われる。しかし立派なものにはほんとものには仲々寄りにくい、ええ加減なものには寄り易い。つまりものの真価を知らないと烏合の衆となる。そんなものは本当の幸せではないのである。本当に求めるものは自己本来のものが中の中から求めているのであります。一人の人が求めるものは等しく全部のものが求めているものである。自己と云うものに災いされて向こうの立派なものが判りにくいものであります。自分と云うものを明るい清らかなものにして行かなければならない。日本の国では清浄と云うことをその肇りから云われている。清いと云うこと即ちそれは無であると考えたら良い。清いと云うことは何もない視界をさえぎるものがない云うことである。邪心が一つもない。自己を中心にするものがない。己れも他人もない。この世は清浄そのものが幸せそのものである。この世は泥水を器に入れておくと水は清く澄んで来る。常に云うこの世は浄化と云うそのものが幸せである。清いと云うことは一切の欲心を取ってしまう。欲心を取ると自己がなくなる。自己消滅である。この時はじめてこの世の明るさが判って来る。自己を色々なところから練り汚れを取ってしまう。本当の中心であります。その中心を完全にして行くと云うことはそれが大きくなり皆が幸せになることである。どうか自分を大事にして下さい。

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