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「ひたすらに、ゆるむことなく、休むことなく」
岸田 親憲
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ひたすらに、休むことなく、ゆるむことなく
岸田 親憲
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神ながらの道
今日は「常に力をぬくな」と云うお話をしたいと思います。力をぬくなと云うことはどう云うことかと言いますと、皆さんはおかしいじゃないかと思われるかも判りませんがそのもう一つ奥を開いてみますと、それは「かんながらの道」のさきはひと云う意味なんであります。それが力をぬくなと云うことなんであります。
神ながらの道と申しますと我々は神の子なんであります。神ながらの道と神の子と力をぬくなと云うことと一体どんな結び付きがあるのかと思われるでありましょうが、例えば子供は仲々親の生きて来たまま(いろいろな経験を通して学びとって来た道すがら)を歩ゆもうとしないものです。親の良い所を学びとろうとしない。それじゃあいけないわけで親と同等か若しくは親を越すことは出来ません。
神ながらの道と云うことは、夫々が夫々の生活を色々なことにぶち当たりらくりひろげてゆくわけですが、それを何だ斯んだと思わずに不思議に通らして頂く。こう云う道なんです。
いわゆる「苦痛」がない。この様に申しますと皆さんは先生まことに結構な道ですなと云われ現実の問題としてあっちでこけてケガをした、こっちで腹痛とか頭痛とかいろいろあるではないかと云われますが、それは自分を良くするための一つのもので皆はそれを苦痛だ痛みだと感じるのです。それはどうかと申しますと、まあ鉄工所に行って工作を見ていると色々と出来上がってきたものをヤスリをかけてだんだん丸くしていく、その何だかんだと云うものヤスリで己れが己れにヤスリをかけている。神さまに別にバチを当てられたのではないのではあります。今も云いました様に己れが己れにヤスリをかけておって何の為にヤスリをかけているかと云うことを知らない。それでは本当につまらない。
神ながらの道と云うのはここが悪いからここを治そうとそれは苦痛でも何でもない。己れのひずみは己れが治さなければならないんであって、何故かと云えば「幸せに行きたい」からであります。ところが皆さんはその「ひずみ」が判らない。そこで大神様にお願いして自分のここが悪いところがあるとすると、どう云う考え方をすればひずみを直すことが出来るのでしょうか、それをこうこうこう云うわけを聞かして頂く。そうですか、そう云う事が悪かったのかとそれを直すことに一所懸命努力してゆく、だから段々と素直になって行く。素直になるから不安がなくなる。日々が生まれたままの素直さで生活させて頂く、それが幸せへとつながってゆく、それが「神ながらの道」の一つ一つ一コマーコマなんであります。
ここで大事なことは、神ながらの道と云うことは一言で申し上げますと、神さまに見習ってゆくと云うこと我々の信仰の目的は大神さま程立派にはなれないでしょうが、なるべく神さまのおそばに行かして貰えるだけの己れにならして頂こう。それでなければつまらない。それが我々の目標であります。神に見習う道、神さまにならってゆく道、そこに幸せがあるのです。それがさきはひ即ち幸せなんです。
「不幸せ」と云うものは神さまの思召しの中には一切かけらもない。我々がつまらないことを考えるから己れが勝手に不幸になっている。可哀想だから神さまがそれを直して下さる。我々を立派な人間にしてやろうと考え下さっている。神さまは一切のものを順調に伸ばしてやろう、皆の面を揃えて一人の人間としてアー立派なものだとしてやろうとしていて下さる。神さまと云うお方はそう云うお方なんです。
神さまに見習ってそのお方に己れもなろうとする道、これが神ながらの道であります。力を抜くなと云うことを思い違いじゃあないかと考えられるかも知れませんがそうなろうと考えれば考える程己れがやらんとすることを力を入れなかったら進まないのです。力を抜いていると伸びることは出来ないんだ。一瞬たりとも停止することは出来ない。停止すれば自然は前に進んでいるけれど己れは後ろに残る。停止していると同じ位置、同じ状態におると考えておりますけれども乗っておるものは先に進んでおります。全く後退しているのと同じこと なのであります。つまらんことをしない様にことごとく力を抜いてはいけない。己れを力一杯伸ばしていかなければいけない。信仰をすると云うことはそうすることなんです。カー杯力を抜かないで前に進まなければいけない。神さまのこのようなお気持ちを信じることが、そしてカ一杯自分を前に運ぶことが信仰と云うことなんです。
我々が生まれた時、すなわち原点に立ち返った場合を考えてみえると、赤ちゃんは何も判らないのにお腹が減ればギャーギャー泣く、お腹のへったことを知らす。命一杯の声をあげている。オムツが汚れて来ると気持ちが悪いと泣いて知らせて来る。こう云う事柄はどう云うことかと云うと、自分が伸びようとすることについて障害になるものを取り除いてくれと命一杯の力を入れて知らせていると私は考える。オギャーと生まれた瞬間から一瞬たりとも伸びると云うことと進むと云うこと以外のことは何も考えていない。私たちはそれを忘れてはいけない。
ところが年がいくに従って知恵がつき自分勝手で力を抜いたり休んでみたりいろんなことをする様になり、信仰と云う中から考えますと私も二六才の時から信仰をしていましたが教祖さまからいろいろと聞かされました。知らされる度に今考えますと、話を聞かして頂いたと云うことはあのことに自分が気まま勝手であった、つまり道草をくっていた、力をぬいていた、つまらんことをしたなぁ、現在あの年になれたらなぁ、どれ程私は幸せになれるだろうと考える。
おそらく皆さんもそうでありましょう。又遠い過去ほど懐かしく想い出となったり悔いとなって来ま す。皆さんどうかそう云う悔いのない人間になってほしいと思います。そして我々は自分よりも信仰のうすい人々に神さまのこの思召しを聞かせてあげたいもんです。人生は永遠の宇宙から見れば一瞬の間もありません。うっかりしてはいけませんで。
神ながらの道は「素直一辺倒」なんです。ところが我々は人として生まれてこれだけの体を持っております。これにとらわれてしまっていろいろな欲望を出している。云ひ換へしますとそれは廻り道なんです。神ながらの道は素直なんです。どちらにしましても素直なんです。これが幸せの根源なんです。世間では素直になったらひどい目に逢うと云いますが私の云うのは大神さま、親導教のご摂理の大神さまのみ声に対して素直になっていただきたいと云うことであります。素直さそのものは全身全霊の力そのものが注ぎ込まれているとお考え願いたいのであります。 更に、一切を忘れていただいて聞きとろうとして下さい。全力で聞き取ろうとすることは進もう伸びようとすることなのです。進もうとする者はその時自分の力が不足していれば力をかります。即ち他力を自分に入れて自分の自力にして出してゆこうとします。これは素直以外に何もないのであります。
信仰と云うものは他力をいかに自力にかえて力強く進むかと云うことであり、それが神ながらの道であり、その道を行けば必ず幸せになると云うことであります。大神さまはその様におっしゃっているのであります。
宗教法人神道親導教
〒668-0811
兵庫県豊岡市鎌田285番地の2
TEL 0796-22-3981
FAX 0796-22-3982
− 親導教だより
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