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​「ひたすらに、ゆるむことなく、休むことなく」

​岸田 親憲

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​ひたすらに、休むことなく、ゆるむことなく

岸田 親憲

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​里の行

 教祖さんがよくこう云うことをおっしゃいました。「人間は人間の考え方がある如くに神さまには神さまのお考えがある。その神さまを人間の考え通りにしようとしたら大間違いである。この世はどうしても神さまのお考えの通りになってしまう世の中である。それを人間の都合で神さまのお考えを変えようなんてとんでもない考え方である。」と云うことをしばしばおっしゃいました。

 このことは少し信仰をされた方ですとよく判りその様に考えられることなのであります。が、一般社会ですとそんなことはどうでも良い、早く自分の思った通りにしてもらったらそれでいい、神さまがどう思っておられようがワシはこうして欲しいのだと考え勝ちであります。こう云う信仰が相当根強く多くあると思うのです。しかしそれは大きな考え違いである、やはり神さまの動き、こう云うものの中に自分を入れて、そう云う動きの中に入ってその動きのままに行く云うことが一番の幸せであります。皆んなはそれを話としてはよく判るが、それでは自分と云うものや自分の意志がなくなってしまって自分がどこかに消えてしまって無くなってしまうではないかと考えるでしょう。実はそれが大きな錯覚なのであります。現代人ほどこの錯覚を強く持っている者はありません。あえて申せば「自分を離れたと云う自分がチャントある」のであります。

 実際に信仰生活をしていると仲々「お蔭げ」と云うものに目がついて仕様がないのであります。ところが一番大事なのはどう云うことかと申しますと考え方が、「狭いとか、浅い時におこる」ことであります。これは「お蔭げと云うものを早く貰らい度い」と云うことばっかりに自分の心がかきたてられている訳けであります。

 ところが仲々早くにはお蔭げは貰らえないでしょう。そう云う時はどうかと云うとそれが修業なんであります。親導教では何度も云います様に事更に特別の修業はしないどころか教祖さまから水の行、火の行などきつく御法度として禁じられております。それも「行」には違いないでしょうが、ほんとうは日々の日暮らしの中で先き程申しました様にものの動きを洞察してそのままに自己を運ぶと云うことの方が、きびしくてつらくて真に自分の骨の髄にまで滲みこみ自分のものとなるのであります。これを親導教では「里の行」と云います。

 我々は少しでも早くもらいたいと云うのみで、貰らうのには時間がかかったらそこに疑いができて来る。ところが業が修まっていないのにお蔭げはやることは出来んとおっしゃっている。普段に三〇点取っていて終業式の日に八〇点で証書はもらえない道理であります。つまり修業の在り方と云うのは、因であるところの原因のつくり方を棚上げしておいて結果ばかりを大きなものを下さい、と我欲もはなはだしいことであります。神さまはそう云うものを逆に取ってやり度いばかりにどうしても早くやれない。神さまは人間づくりをなさっているのであると云うことを忘れてはならない。

 原始の時代のことを考えてみなさい。昔は一人の人が何でもしなくては生きてゆくことが出来なかったんです。今は分業と云うかお金さえ出せば人の作ったものを自分が使うことが出来てほんとうに現実のものの動きを素直にじっと見つめ考え思い直すことが出来なくなって自分の治め方を間違えてしまっている訳けです。こう云った方面の能力と云うか感性を捨ててしまいました。

 とにかく、日々の己れの八方に対しての自分の修め方このことが自己のすべて幸せを生み出すのであります。おろそかには出来ません。常にこれでいいと云う時はありません。この世の中は一瞬一瞬進んでいるのであります。いくらものごとが進んでもそれを己れの中に修めて行かなければ遅くれてしまいます。修めていくからその不幸を幸せとしてはっきり自分が味はってゆけるのです。

 すべて目の前のものごとは人にしても物にしても成り形からすべてが異なっている。値打ちも違うものである。それ丈けを自己中心で見ているとすべてのものが不平等であり差がある。しかしそれらのものが皆神さまの現われでありその御意志を行じて幸せになるために存在するのであると云うこと、それが判って来ると同じ価値同じ値打ちとなり初めて「平等」と云うことが実感出来る。権利が平等と云うのとは全く違う「平等」である。

 自分が全てを修めた場合には、全てのものが同じ価値であり同じ値打ちとなって来るのであります。職業も人間もどんなことも同じ価値を持って存在している。上品も下品もなくなる。「相手を見くびると云うことは己れが未だ足らない」と云うことが判って来る。その人が居てくれないと己れが困る。損得、好き嫌いを越えてその人が必要なのである。相手の人が自分にとって都合が良いにつけ悪いにつけ自分をかかわりにしてくれているので感謝しなければいけない。喜んでお礼を申し上げなくてはならない。

 ところが現実の一般社会ではどうであろうか、見下げた心の在り方の人が多くいる。人をいやしく見る。何をもって見上げたり見下げたりするのであろうか。そう云う見方は間違っている。

そのことが根本から判る人間にしてもらうことが本当の幸せである。それを目指して我々は日々生きているのであります。神さまのみ心はここに在るのであります。

だから必ずしもお藤げが遅いからと云って悲観することはない。大器晩成と云う言葉があります。大きな器になろうと思へば時間がかかります。それが待てない様な人間は小さいものだ。

「大きくなるには、時間をかけ、より多くのものを味わって行けよ」このことが大切であります。

こうなって来ると、神さまが見られてそうであったぞ、まちがい、見ちがい、聞きちがいが我々の方には沢山ある。それを深く承知させて貰らうことである。「神さまには・見ちがいと・聞きちがいは針の穴ほども絶対にない」と云うことである。

 どこまでも自己を練り、練った上にも練り上げて本当にピカ1に神さまと等しくなるところまでの自己にならうとはしないのか。それが生活信條で云われているところの我々が神性を持っていると云うことであって、そうしないで神性もなにも出て来ません。顔を出してくれません。皆さんがそう云う人間にならして頂くことに真剣になって頂きたいと思います。

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