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​「ひたすらに、ゆるむことなく、休むことなく」

​岸田 親憲

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​ひたすらに、休むことなく、ゆるむことなく

岸田 親憲

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​ひたすらに、ゆるむことなく、休むことなく

 私たちはどの様な気持ちで信仰をさせて頂いたらいいのかと云うこと、これは私たち信仰する者の一番大切な心掛けであります。神さまが瞬時も休むことなく苦労を惜しまずに私たちのためにお働き下さり私たちを幸せにしてやろうと向上の道を踏ませてやろうとしていて下さるこの神さまのお気持ちに真剣に立ち向かっていくことであります。神さまが瞬時も休むことなく私たちをお導き下さっているのであれば、私たちも瞬時も休むことなく緊張して神さまのそのお恵み采配をわからせて頂くことだと考えます。

 神さまは何とかして判らせてやろうと一所懸命お働き下さっているその神さまの苦労に対して感謝をさして頂いているでしょうか。この心掛けが崩れて来ると信仰の「ゆるみ」が出てまいります。この信仰の「ゆるみ」の出て来ない様にすることが一番大切なことであります。

 例えば、自分の思いのままに神さまの動きを感じられないとゆるみが出てまいります。神さまと云うお方に疑いの気持ちを抱かない。自分の思い通りにならないのは自分の間違いから起きていると承知させて頂く、それによってゆるみがなくなるのであります。例えば電車にも特急、急行、鈍行とありますが鈍行の電車は各駅に停車する、その鈍行がなければ不便であり困る人が出て来る。私たちは交通機関一つ取り上げても色々なもので思いのままの生活をさせて頂いている。宗教の宗と云うものは、一切をまとめたものである。まとめたものを個々に教えるのが宗教であります。

 宗教がどう云うものか判らぬままに議論することは大きな間違いで、私たちが参拝の時に「拍手」をたたくと云うことはどう云うことかと言いますと、現実に私たちは自分の気持ちが嬉しい時に手をたたきます。神さまにすがった時の最高の喜びを表す時に手をたたきます。又自分が助けてもらいたい時に手を合わす。うれしい時、悲しい時に一つの力あるものに対する自然な動きであります。

 日々の小さなことがらから「ゆるみ」は出て来るもので眞のものを握るとゆるみが出て来なくなります。心に銘記して頂きたいと思います。早く助かる人間と助からない人間とがあります。それだけの過程を通らせて全部教えてしまうものと、そんな過程を通らなくてもそこで教えてもらうものとがある。神さまは何れになっても実体に於いて幸せを判らせてやろうとされておりそのことが大きなお蔭げである。以前に一人の方が耳が遠くなったので、心得を教えて欲しいと言われたが考え違いをしてはいけない。年齢がいっているのも事実ですがその奥にあるのは耳が聞こえればいろいろなことが気になる、そうすると小さなことまで気になる、そうなれば色々の苦労を感じるので自分の幸せはない、体験することをまともにとってくることがその人の徳になるのです。体験したことがその時からその人のものとなりそうして行じたことがそのまま自分の徳になって来るのです。以前私が教祖さまに「先生、徳と言うものは眼に見えないものでどんなものでしょう」とお尋ねしたことがあります。徳と云っても言葉では言い表せない姿形のないむずかしいものである。これだけしてこれだけつめたと云うものでもないし、悪いことしないで良いことをすれば徳をつんだことになる。徳を身につけると云うことは、そのものことを行う時にそのものごとの推移(ことわり)と云うものがあり、それを知って行こうとするのが日々の「行」である。その行を日々にカッチリとやり明暗がハッキリつかめた人を徳をつんだ人と云うのであります。目には見えないけど何かがあり、あの人のところに行くと和やかに明るくなると云うのが徳にふれたと云うことであります。日々の一つ一つの行の在り方でそれが変わってまいります。行は肉体に表れず心、精神と云う姿の見えないものについて行くものである。しかし肉体を通して何かわからないが出て来るものである。その人が居られると非常に安楽な気持ちになるそれが徳ある。結局、常に自分がしっかりと考えて行くことが行であり、行をはなれて肉体はなく徳もないのであります。この様にして一つ一つ積み重ね、間違いのない考え方や生き方から外れることが「ゆるみ」であります。まちがいそものがゆるみであり、本当に安心をしようとすればスキのない生き方をしなければなりません。

 力を入れると勝負に負けます。自然のままのやり方をしている方が野球でも相撲でも勝ってゆく。我々の日々の仕事これはある意味では勝負である。力を入れてはいけない。スキのない人間になろとすれば常に安心しておれる状態にならないといけない。自然は少しも休んではいないのです。ゆるみ、緊張、安心、即応と云うものを我々は日々よく考えているかどうかであります。日々の行そのものが自分を高い次元へと導いてくれたのであり、行をさせて貰ったのは神さまなのであります。自分の人生を判らせてもらったことを神さまに感謝する日々でなければならないのであります。これが人生の最終の思いでなければ本当の信仰をした人ではないと考えます。それにはゆるみがあったらそれは絶対につかめないことであります。自己を高める、眞理をより多く探究する、それを喜べる人間になってほしいと思います。それには「ゆるみ」は禁物であります。

 お祭りの日には心の落ち着きをもって参らなければいけません。おまつりと祀っていることとは違います。おまつりと云うのは神さまに皆がお礼を申し上げ様として神さまをご招待をする、我々がご招待してお礼を申し上げるのに時間におくれて来てそれで成り立つでしょうか、招待をすればされた人よりもその時間よりも早く来なければならない。おくれて来るのは失礼ではなかろうか。それは「ゆるみ」であります。本来己れの生活は真剣ではないのでしょうか。心のゆるみと云うものから信仰をふり返ってみると、もともと神さまにご苦労さまになっているのである。そうして自分の心を神さまの眞理にそわして追求しようとする様な心掛けで信仰をすれば必ずや大神さまのお考え通りの立派な人間になることが出来るのであります。それが神さまのご命令でもあります。親導教でこの世を改革せよとされたのは他の宗教でなく親道教であります。親導教は神さまのご意志によって肇められたのであり神さまの力の入れ様が違います。我々もその思召しに全身全霊をそそがなくてはなりません。神さまはこうだとその証しを打ち樹てて行くには、日々の生活の中で幸せを実現することであります。

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