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​信仰と「私」

​岸田 親憲

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​信仰と「私」

岸田 親憲

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​ふりかえってみると

自分が困りはてた末に神さまに心をしたのでありますが、その限りにおいて信仰は自分の意志でするものであり「している」のでありますが、今までいろいろと触れて来ました様に、私たちを幸せな様にお導き下さる「神さまのみ心」と自分の生命につながる多くの親たちの思い(念)と、その思いを成就させてくれるところの自分の業と縁と、機が熟すと云いますが着々と実ってきたところの長い時間と、その困りはてるキッカケを与えてくれた人や物事(問題)と、仰の世界に導いて頂いた直接の導きの親とが揃って初めて神さまと出逢い「信仰を得る」ことが出来るのであります。人間は困りはてないと謙虚にも素直にもなることが出来ません。そうして初めて「宇宙の真実」に触れることが出来たのであります。「生きている」と云うことのほんとうの意味を知ることが出来たのであります。ふ

それまでは自分を苦しめ抜いた問題や病気や相手が、実は「宇宙の真実」を知らしめるために自分の全く判らないところで準備をし着々と用意お膳立てをしてくれていたのでありますから、昨日まで自分を苦しめぬいた仇が実は大恩人であったわけであります。

この宇宙に存在するすべてのものが自分と云う一点に向けて働きかけておってくれたのであります。そのもっとも苦しかったことを通して自分に迫ってきてくれていたのであります。ゴミもアクタも虫けらもキラキラと輝き作ら微笑み「私」の為に努力していてくれたのであります。

地位、名誉、財産、権力、学力なんかは、こうして「宇宙の真実」と共に生きると云うことからみれば第二義的なことがらであったのです。

この世の一切の存在は神さまのみ光とお導きお引き立ての中で血を分けた「ハラカラ」であり同質であり同格であり、この「私」と云う限られた器の中ですべてが溶け合っていたのであ

ります。

対立なく矛盾なく大きな調和の中にすべてのもが厳然と存在していたのであります。

嫌悪し拒否し怨んでいた人や物や世界が実はそうでなく「私」の眼を開かせる為に時も休

むことなく働らきかけていてくれたのであります。

昨日までの自分と同じ自分ではなく、全く違った自分が誕生したのであります。ガラリとものごとを見る見方や受け止め方が質的に変化するのであります。

生きていると云うことは何と素晴らしいことではありませんか。仰をさせて頂くと云うこと、神縁を得ると云うことは何と有り難いことだったのでしょう。

人生の底の底では斯うしてすべてのものが神さまのお導きの下に「生れかわる」様に段取りがついているのであります。

窮すれば通ずると云いますが実は窮する以前から誰にも通じていたのであります。

こうして初めて「神さまと共に生きる」と云う人生観が湧いてくるのであります。

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