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​信仰と「私」

​岸田 親憲

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​信仰と「私」

岸田 親憲

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​「生きている」と云うこと

人間が生きると云うことは先程も触れました様にその底には自分の意志や力以外の大きな多くの力に依って支えられ、しかも自分以外の親によってこの世に生み出されました。云ってみれば、自分の意志によって生きている面と自分以外の力や意志によって生かされると云う両面がありました。

人々は生きると云うことや生きていると云うことを表面丈けみて簡単に考えがちでありますが、少し計算してみましょう。

一人の人間には二人の親があります。その両親にも夫々又両親があります。今若しその世代を二〇代前までさかのぼってそこに登場する親たちの数をかぞえてみると何人になると思われますか。何と驚く無かれその数は一、〇四八、五六七人となります。

子供の可愛いくない親がどの世界にいるでしょうか。世の親たちは自分の生命を亡ぼしても子供の生命を助けようとします。それ程までに子供を愛します。

現在では親が子を殺し子が親を殺す様な時代ではありますがこの親の子に対する情は真実であります。

ここに一人の人間が存在しているといたしましょう。しかし計算上一人の人間に対して一世代を三〇年として二〇世代を掛けてみると六〇〇年と云う月日になり、六〇〇年の間に一〇〇万人を越す親達が子供の幸福を願い祈る気持ちで夫々の子供に接して来たのであります。

一方九〇年程昔アルバート・アインシュタインと云う科学者がこの宇宙では「エネルギーは不滅である」と喝破しました。眼の前の現象面だけをみていると形のあるものはいつかは消滅し無に帰する様に考えられますが、その公式が基準となって現在のすべての科学が成り立っており月にまで人間が行ける様になった訳であります。

このことと同じ様に私たちが毎日の生活の中でくりひろげる様な感情や思い(念)は時があっても消えることなくこの宇宙の中に永遠に存続します。六〇〇年かかって代々の親達が思い感じ念じた子供に対する「念」は例えその人が好むと好まざるとにかかわらず現存するその人に働きかけております。

又一方、私たちは死ぬと葬式をして肉体は土に還りすべてが無に帰すると考えられがちでありますが、決してそうではなく、私は何千年何万年も「輪廻転生」をくりかえし一切の過去世の業(云ったりしたりした言動の性質)を背負いたら、又この世に誕生以来の言動・思いも含めて、それらの業によってその時その時の縁を発し新しく縁を結び生きております。

眼に見える「生きる」と云うことの裏側にはこの様な眼に見えない作用が宇宙の摂理によって常に自分に働きかけているのであります。

誰も人間は不幸を望むものではありません。しかし良く慮いをめぐらしてみると世間でよく使います「因縁」と云う様な言葉では測り知ることの出来ない程の眼に見えない作用の中で私たちは生きております。

更にこの深い宇宙はそれらのものを内蔵し年ら一つの方向に向かって永遠に時をきざんでいるのであります。この世に存在するすべてのもの、動物も植物も無機物もすべてを含めてそれらの霊性(たましい)が美しく矛盾対立のない大調和(一つのまとまり)の中に進む様に清め高められているのであります。この宇宙の全存在をふくめたものが一つの目的に向かって摂理と云う一つのルールに従って進んでいるのであります。

それを科学者は宇宙の意志と呼んでいます。宗教家は神と呼んでいます。

この矛盾対立のない絶対調和に向かってすべてのものを清め高めようとする意志があってこそ、ものごとは現成したり消滅したり、一分のスキ間も間違いもなく生まれたり死んだりしている訳であります。

この「大いなる深い宇宙(神さま)の意志こそ私たちが「幸福」と呼ぶ「絶対調和」の中にすべてのもを導き入れようとし針の先程もスキのないやり方で(古来このことを…・・・・・・天網、疎にして帰らさず••・・・・・・と表現します)私たちを導いていて下さっているのであります。

この宇宙の最も根底にあるこのすべてのものを清め高め絶対調和の中に導き入れようとする意志の上に始めにいろいろと申しました「念」とか「業」があり、丁度世の親たちが我が子に思いをかけ、あらゆる物ごとを使って子供を躾け教育する様に眼に見えない大きな善意の下にいろいろな出来ごとが起きてくるのであります。

云い変えてみますと、神はこの広がりの中であらゆるものごとを通しあらゆる瞬間を通して私たち人間にそのことを判らせようと努力をされているのであります。

一見、不幸に見えることがらも、解決できない現象も実は私の霊魂(たましい)を含めた全存在が清め高められ絶対調和の中に生まれ変わるための入り口であり、最も自分にふさわしい現実であります。

簡単に自分の考えや感情や意志で「信仰をしている」と思い錯覚をしているのではないでしょうか。

然も「私」の生存には不可分の親が必要であります。私たちは生物学的に誕生と云うことを理解して当然のごとく、さらに親が勝手に自分を「私」を産んだのだと受け止めているのでありますが、そうではなくて、この眼に見えない宇宙のしぐみから申しますと、「私たちは前世から自分をこの世に実現させるために両親を使って」いるのであります。産んで貰ったから恩があるのではないのです。自己実現の為に両親を利用したからこそ恩があるのであります。この真実の姿を自覚しなくては人間として幸せを望む資格がないのではないでしょうか。

神さまのその様な大きな深い御意志、過去の一切の親たちの思い(念)、自分の前世からの業、生まれてこの方の自分の言動や思いそれらのファクターが凝縮して現象が起きてくるのであり、その現象も実は私たちの魂を清め高め絶対調和(幸福)の世界に導き入れようとする現実であるとするならば、これらの真理に出逢わして頂くと云うこと、すなわち、信仰をすると云うことは、表面的な単なる個人の意志のみでなし得ることではないのであります。

云ってみればこれらの多くの要素がありそれらが熟して機が満ち、初めて私たちは神さまと出逢うことが出来るのであります。厳密に云うならば信仰は「している」のでなく、神さまに依って「させられている」のかも判りません。少なくとも「させて頂いている」のではないでしょうか。選ばれた人のみが選ばれた時にのみ信仰をさせて頂くことが出来るのであり、これが人生の中で「街神縁を得る」と云うことであります。

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