top of page

​関連ページ

​信仰と「私」

​岸田 親憲

※​目次の各項目をクリックしていただきますと、書籍の該当するページをご覧いただけます。

​信仰と「私」

岸田 親憲

※​目次の各項目をクリックしていただきますと、書籍の該当するページをご覧いただけます。

「している」「持っている」と云うこと

通常私たちは自分自身を紹介したり他の人々と人生について語り合う時など「宗教はお持ちですか」とか「仰をしていらっしゃいますか」などと語りかけたりいたします。特に外国人との初対面の会話の中では度々用いる言葉であります。それに対して「私は信仰をしております」とか「宗教心を持っております」と云う様な返事をいたします。

この日々の生活の中で仰をすると云うこと、云い換えて広く神佛(超越者・絶対者)に帰依すると云うことは他の動物とちがって人間のみのなし得る崇高な行為でありますが、その行為を表す云い方は「持っている」とか「している」と云う様にあくまでも自分の意志決定によって一つの行為がなされている様に表現されております。

確かに信仰と云う行為は自分以外の人がして呉れるものでもなければ他人の意志によってなされるものでもありません。あくまでも自分の意志により自分がなすところの個人的な行為であります。しかし、この「持っている」「している」と表現される信仰はほんとうに単純にそうなのでありましょうか。

例えば、同じ表現で「私は生きている」と云います。たしかにその人はそこに生存しているのであり決して死んではおりません。

ところがこの「生きている」と云うことも少しアングルを変えて考えてみますと、そもそもその生きていることの始まりに於いては自分の意志で生まれたのでなく自分以外の何ものか(親たち)の力によってこの世に生み出された存在であり、このことを含めて考えてみますと自分の意志でのみ「生きている」と云う丈けでは言い切れない部分が生じてまいります。

すなわち一人の自分自身の中には自分の意志で生きていると実感している自分と自分以外の親によって生み出された自分とが同時に存在しております。現象面のみ考えればたしかに「生きている」のでありますが、その生きていると云う底には自分の意志ではコントロール出来ない肉体の諸器官や親によって生み出されたと云う自分以外の働きがあって、それらを含めて生きていると云うことが出来ます。

これと同じ様に「信仰をしている」と云うこの意識や行為も単純に「している」と云い切れることでありましょうか。

世間一般ではこの様な表現に何の疑問も矛盾も持たないで自明のことがらとして、あくまでも自分がその仰の主人公であって、その自分という主人公の意志によって仰をしていると云う様に理解されております。たしかに「信仰をする」と云うことは他から命令されて出来るものではありません。

bottom of page