top of page

​関連ページ

​信仰と「私」

​岸田 親憲

※​目次の各項目をクリックしていただきますと、書籍の該当するページをご覧いただけます。

​信仰と「私」

岸田 親憲

※​目次の各項目をクリックしていただきますと、書籍の該当するページをご覧いただけます。

​「恥」の文化

遊牧民族や狩猟民族と異なったその様な生活の中ではある一人の人が大きな動物を射とめて大手柄を立てたとか又ある人が他の村人と比べて羊や牛を飼うことにずば抜けて秀い出ておったとか云う一人「個人」の手柄や他人とくらべて特に優秀だとかと云うことは余り問題にならず「個人」と云うものはあっても常に「全体」(村)と云う意識が先行し、その全体(村)の秩序を乱したり他の村人に迷惑をかけることが逆にその個人の「恥」かしいこととして考えられ意識される様になりました。常に皆の眼を気にして、他の人と違ったことを云ったりしたりすることは恥しいと云う様になりました。

外の世界から何らの干渉も受けないで同じ作業を毎年同じメンバーでくりひろげておりますと皆のためになる様な良いことは別としてそうでないこと、すなわち、皆のためにならないことは村全体からは悪いこととしてとがめられたとしてもその当人にとっては罪悪の意識よりも「恥」かしいと云う様に受けとめられ村人として皆と一緒に生きてゆくためには最も気を付けなければならないこととなりました。

「村八分」と云うことが最近まで日本の社会では存在しました。それはその村の秩序を大きく乱した人、村人と全く異なったことを行った人に対して村人全体がとった態度でありました。

「村八分」に逢うとその家族は永久に村人から疎外されました。人々は生活の中で「恥をかく」又「恥をかかされる」と云うことが生活の中で一番大切な事柄となり「罪」の意識よりも「恥」の意識の方が大きく重く人々の心にのしかかりました。

極端な表現かも判りませんが、戦後モータリゼーションが発達して車社会に突入して来た頃、日本では「赤信号みんなで渡ればこわくない」と云う様な言葉が流行しました。信号を無視することは「悪い」ことではなく「こわい」ことなのです。更に集団でやれば「悪い」ことも当たり前のこととなってしまうのであります。

又人に注意をする時、そんな悪いことは止めなさいと云い聞かしても止めない人が、そんなことをしたら人が笑いますよと云うとその行為を止めることが多々あります。

これなど典型的な例で日本人の特性をよく表していることであります。

bottom of page